1549年近江六角義賢が城下町石寺新市を紙の楽市としたことであり、以後、今川義元が駿河の富士大宮、織田信長が美濃加納を楽市とした。
また、北条氏や徳川氏もこれを施行している。
楽座は1576年柴田勝家が越前において唐人座、軽物座を除き「楽座」を命じたのが早い例である。
1549年近江六角義賢が城下町石寺新市を紙の楽市としたことであり、以後、今川義元が駿河の富士大宮、織田信長が美濃加納を楽市とした。
また、北条氏や徳川氏もこれを施行している。
楽座は1576年柴田勝家が越前において唐人座、軽物座を除き「楽座」を命じたのが早い例である。
形成された都市で、大名領国の首都としての性格をもつ。
幕藩体制の解体によって消滅したが、近現代の主要都市のほとんどは旧城下町を母胎としている。
南北朝動乱期、在地領主は軍事施設として峻険な山頂や丘陵などに山城を築き、麓の居館の周辺に家子郎党の屋敷集落を形成したが、彼らは平時には農耕に従事する態勢にあり、町屋の発達はみられなかった。
室町期に至り守護大名領国制の展開に伴い、かつての国府や水陸交通の要地に守護所を設け、守護町を形成したが、居館の周囲に一部の給人の土居屋敷を巡らした屋形町であった。
近世城下町の先駆をなすのは1576年織田信長の近江安土であって、地子免除に加え、楽市・楽座、関所の撤廃などを令して商工業者の誘致を進めたが、短期間で終わった。